vol.4 2024.2.29

[特別対談] 地域のサステイナビリティは、まもり・つくり・つなげること

西塔大海(SML編集長)× 工藤尚悟(国際教養大学准教授)

SML編集長の西塔です。この特別対談では、地域おこし協力隊の先に広がる、あまり知られることのないローカルキャリアの世界を、皆さんにご紹介していきます。

今回のゲストは国際教養大学でサステイナビリティ学を研究されている工藤尚悟さんです。

工藤さんは秋田県の五城目町(ごじょうめまち)を拠点にしながら、サステイナビリティのこと、まちが続いていくことや閉じていくことについて、研究をされています。著書である『私たちのサステイナビリティ:まもり、つくり、次世代につなげる』(岩波書店)では、ローカルでよく耳にする「サステイナビリティ(持続可能性)」というキーワードの本質がとてもわかりやすく紹介されています。

今回は工藤さんにサステイナビリティという言葉の本質や、地方と都市の関係性の中で何が起きているのかについて、お話を伺います。

西塔 工藤さんとはじめてお会いしたのは京都でのサーキュラーデザインをテーマとしたイベントですよね。ずっとお名前はお伺いしていて、秋田県の五城目町には僕の友人も何人もいますし、すごく近しいテーマの研究を大学でされているというのを伺っていて、ようやくお会いできました。イベントの時は、人が多くて工藤さんの所にようやく辿りついても15分ぐらいしかしゃべれなくて。今回の機会を使って思う存分お話を聞いてみようと、お声かけをさせていただきました。

工藤 よろしくお願いします。今日は秋田県の五城目町にある「BABAME BASE」というところから参加しています。元は小学校の教室なんですけど、ここをオフィスとして使っています。普段は秋田市にある国際教養大学にいるんですが、五城目にも拠点をおいて、まちが続いていくこと、あるいは閉じていくことってどういうことかなということを考えています。

01/漁業からきたサステナブル。「サステイナビリティ」=「持続可能性」は誤訳!?

西塔 いろいろ聞いてみたいことがあるんですけれど、まずは「サステイナビリティ」という言葉とその和訳であるところの「持続可能性」が「なにか違う意味で使われていないか!?」というところから聞きたいと思っています。僕はずっと地域おこし協力隊の仕事をしながら、このことに凄くモヤっとしていました。行政の文書には最近「地域の持続可能性」という言葉がよく出てきますが、改めて「持続可能性」って何なんだろう?と。 実は、工藤さんの著書『私たちのサステイナビリティ』を拝見させていただきまして。「あ~、そういうことか!」と腑に落ちたんですね。

工藤 ありがとうございます。

西塔 本の内容と重複するところもあると思うのですが、詳しく聞けたらと思います。そもそも、工藤さんはどうしてこういうことを取り上げて書くことになったんですか?

工藤 きっかけはまさにご指摘いただいたように、「サステイナビリティ」の和訳である 「持続可能性」が、実は誤訳なんじゃないかと思ったところからですね。 サステナブル(持続可能な)という言葉はもともと漁業からきているんですよ。水産の資源管理からきていて、毎年どのくらいの収穫量であれば全体の資源が維持できるのか、ということについて最初にサステナブルっていう言葉が研究で使われたとこなんですね。“sustainable yield(持続可能な収穫量)”のことで、持続して捕獲してもいい量を示すときにサステナブルが初めて使われました。

サステイナビリティって、英語で一語ですけど、“sustain(持続する)”と“ability(能力)”が合わさってできている単語なので、何かを持続する能力の話をしているんです。これが和訳になった時に、サステインは「持続」でいいんですけど、「能力」の意味のアビリティがなぜか「可能性」になってしまっている。「持続可能性」って聞くと、可能性が高い・低いと聞こえてしまいます。例えば、五城目は他のまちに比べて持続可能性が高いですとか低いですとか、そういう客観的な語りに使われてしまうんですね。

サステイナビリティを「持続する能力」と考えると「誰の能力なの?」と、主語が生まれるんですね。私の能力なのか、あなたの能力なのか、そのまちの能力なのか。サステイナビリティが「持続可能性」と訳されたことによって主語が省略されてしまい、違和感があったんです。これって、実は大きな誤解だろうと思っています。

本の中では「和言葉でサステイナビリティを翻訳する」ということに挑戦しました。持続可能性をすごくかみ砕いて言うと、これまで私たちの社会でまもってきたもの、大事にしてきたものを将来的にもきちんと「まもる」こと、これからの社会に必要な価値観や仕組みを新しく「つくる」こと、そういうまもったりつくったりする考え方を将来世代に「つないでいく」こと、の3つが大事だと思っています。「まもる」「つくる」「つなげる」、この3つがサステイナビリティの本質を示す言葉だとご紹介しました。

「まもる」には漢字が2つあって、守備の「守」はプロテクトみたいな意味ですけど、保護の「護」はプリザーブドみたいなことですよね。継承していくということ、保護地区みたいなニュアンス。「つくる」もおなじで2つの漢字がある。「作る」は形を作る、仕組みを作るです。創造の「創る」はクリエーションの方ですよね、クリエイティブであることがすごく大事。時代が変わり価値観が変わるからアップデートされていかなきゃいけない。それが「つくる」。

最後に「まもる」、「つくる」って感覚を「つなげる」ことですね。次世代に「つなげる」。サステイナビリティの一番のコアの概念は世代間のつながりなんです。世代間のつながりをどういうふうに考えるか、というのがサステイナビリティのど真ん中です。なので次世代につなげるというふうにしています。継承の「継」、そして物理的に繋げる「繋ぐ」という字をあてています。

西塔 今の話の中でまずは「まもる」、「つくる」に関して掘り下げて聞いてみたいです。僕らはこれまで大切にしてきたことをまもりながらこれから新しく、社会で大切にしていきたいことをつくっていくわけなんですけど、何をまもって何を新たにつくっていくのかという判断は、地域の中で無茶苦茶難しいと感じるわけです。そういう時に僕らが何か手掛かりになるものとか、例みたいなものを教えてください。

工藤 何をまもり、何をつくっていくかが難しいのは、2つ以上の価値観がぶつかるからなんですよね。価値観とは何かというと、合理性ですね。つまり物事の「理(ことわり)」です。どういう手順で何が良いことなのか、悪い事なのかを決めるということです。例えば全員が平等に教育を受ける権利など非常に近代的な価値観で僕らは育っているわけです。

ところが地域に入ると2つ以上の価値観、2つ以上の合理性が同時に存在するんですよね。これを無理にくっつけようとすると当然ぶつかるわけです。だからその両方がきちんと話し合えるような場所というのがずっと求められているんだろうと思います。

これは「そうであったらいいな」という理想の話で、実際のところは、自分が大事だと思うことに基づいて人は動いていく。衝突する場面もあるかもしれないけれど、そういう動きがいくつか出てくると、どこかでお互いのことを認め合う瞬間が生まれてくる。あんまり最初に一生懸命対話して合意していこうということはないのかなと思います。質問にお答えすると何をまもっていくのか、つくっていくのかっていう時に1つ以上の価値観が必ずあるってことをまずは認めることが大切だなと思います。

02/地域にはググっても出てこない、複数の価値観や合理性がある。

西塔 「地域には1つ以上の価値観があるということを認める」って言葉面だけ言うと、そりぁそうだろうと思うんですが、直面しないとわからない難しさがありますよね。僕らや地域おこし協力隊の人たちとか、地域の中で活動したり働いている人たちにとっては、うすうす気づいていたり、そこに直面して絶望したりした人も多いのではないかと思います。価値観とはその時代ごとの合理性であるって考え方に、僕はなるほど、と思いました。生きていくために社会を理解したいという欲求として理を見つけていく。そして、「社会はこうなんだ」、「世界はこうなんだ」というふうに考えたその時代の合理性が価値観という体系をなして僕らの前に現れる。それを頭の中にすっぽり入れて生きていくことで安心してこの世界で暮らしていけるわけです。逆に言うとそれが全くなく生きてる人間なんていないわけじゃないですか。

工藤 いないですね。

西塔 おじいちゃん、おばあちゃんたちはその時代の合理性の中で価値観を形成し生きてきたわけです。そういう人たちと僕らは全然違う時代の合理性の中で学び吸収し、世界ってこういうもんだよねっていう理(ことわり)をもって、対峙するわけです。 その時に、たくさんの協力隊をみていると、世界にはあなたの知っている価値観以外に別の価値観もあるんだよと言うのは、「この宇宙は別の宇宙があるパラレルワールドなんだよ」ということぐらい、受け入れがたい人もいるんだろうなと思うんです。そういうこと、工藤さんは考えたことないですか。

工藤 この話をする時にいつも都市と地方のことを話すんですけど、都市には都市の合理性があって、それはつまり、「効率性」なんですね。人がいっぱいいて、空間が限られているからすべて効率的に作らなきゃいけないわけです。A地点からB地点まで毎日15分で行けるようにしないと仕事が回らないので、雪が降る日も大雨の日も、暑い日も15分で行けるような効率性が都市の基本ルールですね。

地方に来ると地方の合理性があって、それはお話頂いたように、その土地ごとにあるものだと思います。僕が面白いと思ったのは地方の人は、この合理性が複数あることを感覚的に知っているけれど、都市の人は1つしかないと思っているということです。その上で、地方側から都市にはたらきかける時にはスイッチが切り替えられるんです。地方側の人は都市側の仕組みを知っているから、自分をどう売り込めばいいのかのルールが見えている。ルールブックがあるようなものです。

だけど、地方の側の持つ合理性には、非言語の部分が多く含まれます。当然ですが、非言語なのでどこにも書いていない。そして、当然のように地域ごとに違う。誰かに教えてもらえるものでもないし、そこで暮らして初めてわかるものであったりします。秋田の慣習が佐賀では通用しない。そういうわからないものがあるんだっていう前提の気持ちがあるかどうか、だと思うのですが、都市に対しては、ルールを知っている地方側の方が圧倒的に有利だなって思っています。

都市から地方に来る人って、そもそもルールがあることすらわからないし、あることに気づいたとしても、どこに聞いても教えてくれない。どこで調べたら出てくるのかもわからない。「ググっても出てこない!」っていう状況ですね。

西塔 ググっても出てこない世界がここにはありますよね(笑)。

工藤 そうなんです。まさにパラレルワールド的なもので、僕はそれはすごくおもしろいなといつも思うんです。だから今の時代において地方にすごく関心が向くなかで、何にそんなに関心が向いているのかなぁって考えてみると、慣れ親しんだ都市の合理性と違うものに多分皆さん触れているんですよね。どうも自分が知っているルールじゃないもので物事が動いている。そのこと新鮮なのかなと。

西塔 今この話の中で工藤さんが地方の人は2つ以上の合理性があることをわかっているという言い方をされたと思うのですが、それは具体的にどういうことでしょうか。もう少し詳しく聞いてみたいです。

工藤 例えばの話ですが、庭木の枝葉が伸びすぎてしまっていてそろそろ剪定をしないといけないんだけど、ハシゴがない。そんなときに、「剪定をしたいんだけど、ハシゴどこかにないかな」と周りの人たちに話してみる。そうすると、知り合いが知り合いを辿って「〜さんが貸してくれるってよ」と教えてくれる。そんな風に、日々のちょっとした事について、手を差し伸べてくれる人たちがいつもそこにいる。ソーシャルキャピタルがこの町には豊富にあって、というふうな説明もできるんだけど、誰もソーシャルキャピタルなんて思ってはいないですけどね。

西塔 都会にあるのは経済合理性、物やサービスを売り買いすることで物事がまわっていくけれども、田舎にはそれ以外の仕組みがある。こうした市場以外で物やサービスが行き来する仕組みがあることを、暮らしの中で当たり前に感じるということですね。

工藤 はい、そのとおりです。別の言い方をするとマーケットがないからマーケットの外で解決しなきゃいけないんですよね。都市の合理性でいけば、何か足りないものがあるのならば、お店で買ってきたり、サービスを依頼したりする。。これが市場の仕組みです。でも、地方に来ると、そもそも必要とする物やサービスが市場で提供されていないことが多い。でも他方で、解決する術を持っている人たちはたくさんいるわけです。マーケットに載っていないので、そもそもググるグーグルも存在しない。だから「ちょっとこれ困ったなぁ」って周りの人たちに話してみると、それを聞いていた人たちが「〜さんがハシゴ探しているらしいんだけど、誰か持ってる人いないかな」という風に情報が広がっていく。毎回必ず解決される保証があるわけではないんだけれど、その状況は共有されていって、できることを探し合うというような空気感が生まれる。マーケットがないからこそ、マーケットの外で解決する術を持っていて、それがフルで動いているという感じがしますね。

03/サステイナビリティの「つなぐ」:30年先の未来に残したいものは何かを考えること

西塔 もうひとつの話題としてサステイナビリティという言葉の中には次の世代につないでいくということがありますよね。その辺りも、もう少し詳しく聞かせて下さい。

工藤 サステイナビリティという考え方が何かというと、それは「次の世代も我々と同じように豊かに暮らせるようでなければならない」という、思想なんです。そこがベースラインです。例えば今の世代がきちんと雇用があるとか、教育を受ける場所があるということも、もちろん大事なんですが、次の世代も同じように仕事があり、ちゃんと教育を受けられて、安心して暮らす場所がないといけないんです。それって当たり前のように聞こえるんですけど、冷静に考えてみると今の社会の仕組みは全くそうはなってないんですよ。

例えば西塔さんが株式会社合作で携わっている鹿児島県大崎町のリサイクルのお話は、「焼却炉を建てたら最後、将来世代までずっと莫大な焼却炉の建築費と環境負担を払わせることになるじゃないか。そんなことはしない方がいい。未来のために徹底的にリサイクルしよう」という考えが出発点だったと伺っています。将来世代のことを考えて、焼却炉の建設をやめた。この例はサステイナビリティのまさにど真ん中ですね。でも、多くの自治体はそれをしないわけですよね。補助金を使って建てられるなら、建てられるうちに建てちゃう。そういう判断をする自治体も多いわけですが、将来にむけて十分に考えられているのか。建設すれば、将来世代も使えるという議論も成り立つけれど、本当に将来世代に残したいものとかつなぎたいものを考えて意思決定しているか。もっと具体的にいうと30年後にここに住んでいる人にとって豊かに暮らせる条件を残していくことを軸に考える、世代間公平性といわれるものです。

西塔 世代間公平性と言うとすごく二項対立的に聞こえますよね。これを実行するのに困難がつきまとうなと思うのは、次の世代は今ここにいないじゃないですか。僕は自分の娘が生まれてから次世代というのをすごく意識するようになったけれども、将来世代と言った時にもっと遠いネイティブアメリカのように7世代先みたいなものをイメージするとここにいないわけですよね。

この世代の求めるニーズと我々の求めるニーズ、7世代先の考える人生の豊かさと私たちの人生の豊かさは違うかもしれない。あるいは僕は化学を専攻していた人間なので7世代先には自分らには思いつきもしないような資源活用の方法があるんじゃないか、だから石油は使ってもいいよね、みたいな何か楽観的な見方もある。そう思った時に、次の世代を見越してその世代のために今私達が我慢したり、抑制したりする思考は難しさが付きまとうと思うんです。どう考えていったらいいでしょうか。

工藤 そうですね、それは2段階あって、まず1つ目はそういう考え方をすることが非常に大事だってメッセージなんですよね。次の世代に何を残すかの意思決定の中で、手続きとして必ず考えるということです。2つ目はご指摘いただいたとおり、確かに7世代先は全く違う価値観を持っているので、私たちにはその人たちにとって何があれば幸せかは確かに言えないですよね、それはそのとおりだと思います。

今ある資源を我慢することじゃなくて、もちろん今の世代の中で持続可能な形で使っていくことは大事だと思うんです。その上で、どこかで科学技術が進んで代替の技術とか全く違うリソースを使い始めたりすると思うんですよね。私がいつも思うのは、30年が一世代だと考えると、次世代を生む世代が今もうこの世の中に存在するわけです。今の30歳前後が次の30年先の地域の人口を再生産するので、私がその現行世代として次に何を残したいかということは言えるわけです。そこが結構、肝だと思ってます。例えば森林とか海洋生態系であれば時間軸をずっとのばして100年、なんなら1,000年もありえると思うんですけど、世代間については、人の時間なので、30年刻みで大体3世代先、100年先ぐらいまでが、実際に想像力が及ぶタイムフレームなのかなと思っています。

西塔 将来世代が何を望み、何を幸せと考えるかわからないし科学技術がどうなっているかわからない。けれども一旦物事を決める時に将来世代を想定して考えてみるというプロセスそのものが重要だということですね。そして、分からないながらも次の世代を生むものとして、少なくとも30年先の人達のことを思って、残しておくべきもの、残していった方がいいものを想像するのは確かにそこまでは難しくないなと思います。

工藤 世代って上の世代も当然ある訳ですよね、僕の30年上も今この世の中にいるわけですから、彼らが30歳前後のときに、我々に何を残したかったのかと、聞けるわけですね。

西塔 その世代の皆さんにも実際に聞いてみたいですね(笑)。30年先というタイムスケールだと随分想像しやすくなりますよね。

工藤 例えば山菜を採りに行く場所をあんまり話さない70代の人とかでも、ここ5年ぐらいで聞いとかないとそれが失われちゃうので、僕は聞いておきたいなと思うんです。「あなたの次の世代として山菜がとれる場所をこっそり教えといてください」みたいな(笑)。

そういう30年刻みぐらいで3世代ぐらいがコミュニケーションするというのが、わかりやすい世代間の繋がりだと思うんです。7世代先を考える、エコフィロソフィみたいなものはもちろん大事なんだけれども、それだとあまりに尺が大きすぎて実践として何をやるのかがよくわからなくなってしまう。だから、前後の30年という感覚は大事かなと思います。

04/地域を閉じること。「人口」だけでは図れない地域の未来

西塔 次の世代に残していきたい地域、あるいは工藤さんの言葉で言うと風土のような、山菜を採る場所やお祭りの云われとか、ここでどうしてその生業があるのか、ということを踏まえた上で大切だから残していこう。今の時代の価値観に改めていこうと思いながら新しいものをつくり、次に地域をつなぐことを僕ら地域おこし協力隊は一所懸命やっているわけです。

佐賀の人達が取り組んでいる、多文化共生は「つくる」というフレーズがすごく大きいし、山菜は「まもる」「つなげる」というフレーズが大きい。地域交通とかも今までなかった仕組みを「つくる」という取り組みで、まさにサステイナビリティの範疇の中のことをしています。でも一方では、僕自身も山の中に暮らしながら「根付いていくことの無理さ」みたいなことを感じるわけです。特に誤訳として使われていた時の持続可能性というニュアンスからくるところの、同じものが同じ形でずっと続いていくことを押しつけられた時に、それは無理だよねって思いもあります。

以前、工藤さんとお話したときに「閉じていくっていうのも選択肢のなかにあるんじゃないだろうか」という内容があったと思うんですが、工藤さんがどんな風に感じながら五城目で閉じていくことを発想しているのかお聞きしたいです。

工藤 地域の将来を考える時に、今何が一番基準の情報になっているかっていうと人口なんですね。5,000人の町が30年後も5,000人である。これが一般的に考えられている「持続可能な地域」の姿だと思うんです。それも多分、選択肢の1つだと思うんです。本当にそれを達成したいんだったら戦略がありえると思うんですよ。だけど人口だけが、地域を作っているわけじゃないし、もっといっぱいあるわけです。例えば海洋高校がある町はそれだけで子どもたちが次世代の海を中心に学んでいって、その周りにサポートする大人がいてみたいな。教育も軸になるし、景観もそうですよね。この町には山があって、そこから見る景色でいろんな情報がわかる、とか当然ありますよね。

そんなふうにして、地域って本来は、複数の軸の総合としてあるはずなのに、その将来を語るときには、なぜか人口から話を始めてしまう。僕はこれが大きな間違いだと思うんですね。地域とはつまり何かと言ったときに人口規模じゃない、ということは誰もが合意するところだと思います。ところが、どういうわけか地域の将来を考えるときには、「これぐらい人口が減るからその規模に合わせてこれぐらいのサービスを用意しておきましょう」という思考パターンになっちゃう。僕はこの考え方自体が大きな間違いだと思っているんです。

そういう考え方もあるけど、そうじゃないプランニングの仕方もあって、いろんな選択肢があることが一番大事だと思うんですね。閉じるのは当然、心情的には悲しさを伴うわけだけども、それを選択肢の中に残しておかないと「いやいやこのまちはずっと続いていくんです」と。実際そうではないことをうすうす感じながら、でも強気で言っていくみたいなことを多分今までしてきたんだと思うんです。それって本当にいいことなのか。そういう議論を糾弾したいわけではないけれど、どういうわけか地域の将来を考える時には人口を軸にして、佐賀の将来も秋田の将来も北海道の将来も同じパターンで考えようとしている。それぞれに違う考え方があった方が自然なはずなのに。

秋田の場合は、全国で一番人口減少率が高くて高齢化率が高い集落が10年、もっと短くて5年の間で無住化し、空き家が残り、耕作放棄地が沢山できることが自然に起きていくでしょう。だって残り5軒ぐらいの住人がみんな70代後半や80代だったら、向こう10年くらいで閉じていくだろうな、って思うわけですよね。その時に何も手をつけずに「地域が無くなったね。なんか悲しいね。」となるのではなく、だからこそ、その10年の手続きをどうするかを考えることは、むしろ丁寧に暮らすことではないでしょうか。

閉じることを考える時って何をケアしていかなければいけないか、何を大事にしたいか考えているじゃないですか。最低限この行政サービスはいるよねってことや、今住んでいる人達の元に通って顔を見ながら「この地域ってどんな地域ですか」みたいな聞き取りをすること。そしてそこに住んでいる人たちが最後まで住むことも、とても重要なケアだと思うんです。「ここ2軒だけなんで、申し訳ないんですけど、まちの中心に来てください」とは誰も言えないですよね。そこに住んでいる人たちが何十年も自分の家と家の前の田畑を耕しながら過ごしてきたわけだから、最後までそこに住み続ける権利みたいなものがあると僕は思っています。そういうことを大事にするのはむしろ、規模を維持しようとすることと同じようなレベル感で大事なことなのではないでしょうか。

閉じるって表面的には悲しいことのように思いますが、人って無くなる時に何が大事なのか真剣に考えるし、それが見えてきた時になにかしようというモチベーションもすごく高いし、限られた時間までやっていきますよね。

あんまりいい表現じゃないかもしれないですけど、みんな生きている以上、死に向かっているわけです。だから死が近づくと、その死の間まで何をしたいのかってことを真剣に考える。散らかっている部屋だと何が大事か分からないけど、綺麗に整理されると、ここで何をするのが居心地がいいのかがわかる。そうした物事の考え方と同じことだと僕自身は捉えています。

西塔 僕も地域の未来を考える時に人口っていうファクターで切り出したことの功罪ってあると思うんですね。2014年に「増田レポート」(※1)が出て、「創生戦略つくりなさい」って安倍首相が言って、人口ビジョンは絶対作らなきゃいけないものというのが生まれた。確かに、それによってKPIを設定し、それで成果をみていくようになったことは、これまでの政策の中では定量的にPDCAサイクルを回し計る上で大切な方針だったと思うんですよね。でも同時に、工藤さんが言ってたとおり、それだけではない軸が地域にはたくさんある。増田さん達もそれを無視したかったわけではなくて、人口をベースにしながらたくさん軸はあるよねっていう中でそれぞれオリジナルのものを考えてごらんなさいよって創生戦略をつくらせたと思うんです。ところが、本当はそれぞれの地域の戦略があったはずなのに、国がつくったモデルを各地域、全部真似してしまったんですよね。

工藤 一応補足しておきたいのが、それは「単位」の問題だと思うんです。地方創生戦略を自治体規模で考えるのはおそらく大事で、自治体規模で実行を考えてこれぐらい還元するからそこに住んでいる人達が憲法上保証されている健康で文化的な生活ができるようにするっていうのが、いい議論だと思うんです。定量的にやってPDCAサイクルを回す。

ただ、地域って入れ子状に、複数の単位が同時にあるじゃないですか。一番小さいのが個人、家族、ご近所や集落、学校区があって、水道のエリアとか。大きいところは定量的にKPIを設定して、PDCAでやっていくという方法でいいと僕も思うんです。ただ、小さいところにそのロジックをあてはめた時に、そこに住んでいる人達にとってそれが本当に幸せなのか、だんだんわからなくなっていくことがある。増田レポートが設定した単位では、多分そこまでは手が届かなかったんじゃないかって気が個人的な印象としてあります。

※1増田レポート……増田寛也氏と私設の研究会である人口減少問題 研究会が2014年に公表した「地方消滅」をはじめとした3本の論文を総称する呼び名。東京一極集中が招く人口急減についてなどがまとめられている。

05/地方の側が自らの将来について語る言葉を自分で持つこと

西塔 僕らや協力隊の人達など、地域に入った人間は右目でKPI的な数字を見ながら、左目で地域の一番小さい単位からいくつかの単位までも体感しながら生きていくわけですよ。そこに感じるギャップみたいなものをどう個人の中で埋め、行動の中で折り合いをつけていくのかってところが実務的な課題だと思うんです。具体的には、例えば移住・定住の取り組みをやりなさいって言われてきた協力隊が地域の中でいろんな取り組みをやるけれども、それぞれの地区や集落の中ではまだまだ人を受け入れられる状態じゃない、あるいは受け入れられたとしても1人か2人。だから出せる成果も5人、10人の移住者が増えたってくらいでも結構大きな成果なわけです。一方で、KPIは桁2つぐらい違ったりする。こういうはざまにいる人達が、どう折り合いをつけていくか、というところで工藤さんの知見が生かせるものはありますか?

工藤 小さい単位での声がすごく小さいことが問題だと思います。単位が大きいから偉いわけじゃないですよね。地方創生で言っているKPI、PDCA、定量的なものはひとつのルールで、それに従うことがゴールではないですよね。

いわゆる都市側のKPI、PDCA、定量的な指標を通じて大事にしようとしているものが、同じロジックで集落の側にもあるわけです。しかし、それが言語化されていないし、語る人もいない。地方の将来のことについての言葉は全て中央がつくっている現状があって、例えば「地方創生」って別に地方の人が言ってないですよね。創生したいとか活性化したいとか、全部中央から出ている。この国の都市と地方の関係性って「言葉をもつ都市と言葉をもたない地方」の関係性だと思うんです。僕自身が大事だなと思うのは地方側が自分の将来について語る言葉を自分で持つことです。自治体の将来を語る言葉は地方創生の枠組みの中で沢山出てきているんだけども、集落の将来を語る言葉はまだそれほど存在しない。協力隊の人たちってその間をすごく頻繁に行き来していて、片方に行くと非常に明瞭な言葉でこういうふうになっていくべきだみたいなものがある、一方ですごくローカルな単位に降りていくと、そことねじれているものがある。

例えば、最初に言っていただいた閉じていくプロセスって、その大きい単位のなかで語られてないんですね。想定されていないというか。埋め込まれてはいるんだけどそんなにはっきりと言ってない。言いにくいってこともあるんですけどね。だから、そういうことも含めて自分が暮らしていると感じる単位の間のことを自分の言葉で語る言葉がないので、ちゃんと対等なぶつかり合いができていないことが僕の問題意識としてあります。

BABAME BASEに場所を持っているのもそういう意味合いがあります。今、地方側や地域側が発信する言葉のボリュームが、中央からが100に対して多分0.1とかなんです。地方が声を上げているような本を書いているのは、中央のシンクタンクだったりするので、「私は地方に2拠点目を持っていて、多拠点生活しているから地方のこともわかります」みたいな立場から書かれているんですが、僕のイメージだとそれって実は100が101や105になっているんです。いわゆる限界集落側から中央の言葉に対してちゃんと言葉を投げれる人が必要で、これがローカルメディアだと思うんです。まさに今回の対談やメディアが集落側の言葉だと思う。だから、頑張ってください。私も頑張ります(笑)。

西塔 我々の意味付けまでしていただいて(笑)。誤解のないように話しておくと言葉を持たない地方って別に学問的や教養的な話とか、物を知らないみたいな話では全くなくて、都市よりも言葉を重んじないというか別な価値観軸の中で共同体が運営されているということですよね?

工藤 はい。非言語のレイヤーが凄く厚いので言葉にすることが野暮みたいなところもあります。そもそも言語化することがそんなに価値のあることじゃなかったりするんですよね。だから、私が「こういうことだと思います」って話しているのも割りと当たり前な、野暮ったいことをしているんです。地域側から見ると。「まもり」「つくり」「つなげる」とか当たり前すぎて、みんな知ってるに決まっているじゃないか!みたいな感じなんだけど、あえて「本当にそうなんですか?」というのが僕の役割なので。

僕のこうありたいなっていう未来の関係性って地方側のボリュームがある程度ついてきていることが大切です。ローカルメディアや地方に拠点をおいている研究者、地方の新聞社とか含めて大きくなっていって、ちゃんと議論し合えるようにならないといけないと思うんです。ただご指摘いただいた通り、地方側ってのはそもそも言語的な社会じゃない。というか、非言語がすごく強いから、あんまり得意じゃないんですよね。

西塔 確かに、さきほどの野暮という言葉がぴったりくるかもしれない。「そんな言わずもがなのことをお前は何を言っているんだ」みたいな。そうなると都市部の人たちから見ればすごくつたない言語化だし、地方側の人達から見ればそんな野暮なことをだし、割りと誰からも評価されない道のりを歩まれているんですね。

工藤 そうなんです。研究って分野によって全然目的が違うので、自然科学的な物だとファクト、事実をみつけてく、人智を高めるみたいな話しになります。僕の研究はそことは全く趣旨が違い、「言葉にしていく」ただそれだけなんです。中央側と集落のボリューム感が全然違うので、集落側の言葉を増やしていくこと。世の中の端っこのほうに、ちょっと置いておくと、同じことをたまたま考えた人が僕のnoteとかに来てくれた時に「そういうことちゃんと考えて言葉にしてくれる人がいるんだな」って安心するみたいな場合があります。メインストリームにおいて「どうだ!」みたいなことじゃなくて、世の中にアベイラブル(available)であることが目指しているところです。どんな評価がされるかの前に、とりあえずあるようにする、みたいな。

西塔 僕としては最大の褒め言葉のつもりなんですけど、評価されないけれどもそれに価値を自分で見い出し、領域を開こうとするのはとてつもないことだと思います。今言っていただいたからこそ初めて、自分がやっていることもそうだなって僕自身も思えるし、そう思えた人ってこれ読んだ人にいっぱいいるんじゃないかなと。協力隊とか地域プレイヤーの中には「なんで地域で行われていることをこんなに頑張って発信しているんだろう」と思いながらやっている人たちが沢山いるはずなんです。別にこの世の中を劇的に変えるわけじゃないし、こんなことやっても、ほんの数人の集落の営みを紹介しているだけじゃないか、みたいな。でもそれがすごくアンバランスな声の大きさを整え、少しでも地域の声を大きくしていくことなんですね。

06/言葉にするってことは世の中に「ある(在る)」ことにすること。社会的意味であり自己表現

西塔 もう少し具体的に聞いてみたいんですけども、さっき非言語の地域の中で言葉がつくられてこなかったけれども、研究者や地域メディア、新聞社などそういう人達が発信していくことが大事であると。そうなる未来にもっとこんなものがあるよ、こんな人たちがいるよって工藤さんのイメージにあるもの、他にありますか。

工藤 まずひとつは、言葉にするってことは世の中に「ある(在る)」ことにすることだということです。存在することにする。僕らって言葉を使わないと考えられないから、言葉にできることは、世の中に在るということです。非言語はもちろんたくさんあるんだけど、今の時代、地方と都市の関係性を考える時にちゃんと言う、言葉にすることで初めて土俵にのるみたいなところがあるので、個人的にも、社会的な意味合いにおいても、すごく大事だと思っています。

もうひとつは「言う」ということは、自己表現だと思っているんです。「私はこう思うんです」と言うこと。例えば最近気になっているのが、地域で活躍する人みたいな意味でいう「プレイヤー」という言葉がなんか引っかかるんですね。なんでかというと、僕自身はイベントを打ってるわけでもないし、何かものを作っているわけでもないので、「プレイヤー」ではない気がしています。そうすると、プレイヤーになれない自分、みたいなのになんとなく劣等感のようなものを感じてしまったりしますが、この議論にそれほど意味がないような気もするのです。そういう違和感を「言う」ことは、やっぱり大事だなぁと思います。

五城目町では、“今度の日曜に子育て世代の皆さんで集まって雪山つくろう!”みたいなことがいっぱいあるんです。見てて関心するんですけど、僕はそれではないので、プレイヤーと名乗れないというか、言われても違和感があるし、自分の中のザワザワみたいなものがあって、「もうちょっと納得感のある言葉で言っておきたい」という感覚があります。例えば「地域づくり」とかも別の言い方があるわけじゃないですか。さっき言ったプレイヤーの人たちがいろんなことを企てているんですけど、誰も地域のためにと思ってないし、地域づくりでこれをやろうとは言っていない。外から語る時には“地域づくり”とか“プレイヤー”って言っといた方が便利で伝わりやすいけど、その中身の人にとっては、その表現がストンと腑に落ちるわけではないことがいっぱいあるじゃないですか。一番感覚が近いところの言葉で言っておきたいという、自己表現なんです。

さっき「企て」という表現を使いましたが、ビジネスまでいかないけど、自分で能動的に動いた時に人って輝く。でもマイプロジェクトとは言いたくなくて、もっといいものはないかなと思った時に「企て」と言ってみたんです。僕の周りの人たちが「それいいね!」と共感してくれることが何回かあって、嬉しかったですね。他にも、このBABAME BASEは町の中心から2キロ離れていて、ここ出島みたいだなって思ったんです。「BABAMEって出島みたいですよね」と言ったら「その表現いいですね」みたいな感じでみんな使ってくれるようになった。これもとても嬉しい瞬間でした。

僕が言う「言葉をつくること」は、感じていることの際際まで迫る表現でストンとおちる言葉をひねり出し、それを使ってもらうこと。それが地域が自律していく、自ら律する自律心を持つ瞬間なんだと思うんです。外からの言葉に頼らなくても地域が自分たちのことを語れる言葉を持っている時が、ボリューム感で対等に出会えるときなんだと思います。中央からの言葉でまちおこしって言われた時に、「いやそうじゃなくてうちでは「企て」って言ってます」、みたいな、通訳する先の言葉がちゃんとこっち側にある状態を作りたいなと思っています。

西塔 壮大なことを考えているんですね、なるほど。都市側で作られた言葉だけを使って僕らが会話するんじゃなくて僕らが一番しっくりくる言葉で外からくる言葉に頼らずに僕らが表現できるようになったらいいよねってことですよね。

工藤 そうです。気持ちがいいことだと思うんです。方言みたいなもので、例えば佐賀の人が東京でお仕事されて佐賀に帰って来て佐賀弁で話した時、自分の感じていることを自分の母語で言えた時にホっとするみたいな、それにすごく似ていると思うのです。留学しているけどごはんを食べるときに、「いただきます」を言わないとなんか気持ち悪い、みたいな。感じていることと使っている言葉がきちんと重なることは、人にとってすごく心地良いことだと思うんです。どういうわけか地方の将来を話す時って、外国語で話しているような状況になっちゃうのを解消したいんですね。

西塔 なるほどほるほど。すごいわかります。やたらめったら、新しい言葉とかコンセプトをつくりたいわけじゃないんですよね。しっくりくる言葉でコミュニケーションができていくと、お互い気持ちがストンと落ちていくようにコミュニケーションが進んでいく、というのはすごくわかります。

工藤 例えば標準語で「遠いな」は、秋田弁だと訛って「とぎー」って言うんですよ。「遠いな」って言うと何かちょっとこの辺でフワフワ言ってて、でも秋田県民同士だと「とぎー」って言うと気持ちがのるのに似ています。プレイヤーっていわれるとなんかフワァってして「いいんですか?」みたいな感じがあるんですけど、僕含めここにいる人たちが自分のやっていることをきちんと重なる言葉で言える言葉を考えるのが好きですね。

西塔 それが工藤さんの根源的な欲求であり今の営み、ひいては仕事という研究になっているわけですね。すごくしっくりきました。なんでこういう仕事なんだろうって思っていたので。

工藤 地域に研究者がいるのはすごく大事なことだと思っています。地域資源のマテリアル系の研究をする人がいるのもとても大事なんだけども、そうじゃなくてその地域全体の起きていることをちゃんと言葉にしていく人がいるのは結構大事なことですよね。個人的に地域の大学ってそういう意味ではすごく大事な立ち位置にいると思っています。

私も西塔さんとお話して自分の中でもたぶん今まで言えてなかったものが出できたと思うので、本当にありがとうございます。今日お話ししていて抽象的になっちゃってるなってすごく思っていて。僕の仕事はある部分で抽象的にすることなんですね。日々起きる具体的なことを1個抽象度を上げて言う。そうしないと細かい点がたくさんあるだけで結局全体でよくわかんないみたいなことになるので抽象化するって結構役割みたいなところもあって。

西塔 今日の、「言葉にするっていうのは世の中にあることにする」っていい表現だなと思いました。僕も普段「制度設計の専門家です」って言っているんですけど、実は僕が勝手に言っていて、誰も使ってなかった言葉なんですよね。やっていることややりたいことに合わせた言葉に取り組むことは僕も実際にやっていたのだと気づきました。

工藤 これは今日の感想にもなるんですけど、僕は自分で感じている気持ちを一番しっくりくる言葉で言いたい人間なんだと思うんです。すごくありがたいことに、それが研究者という職業で生業になっていて、自分ってめっちゃラッキーだなって、この対談を通して何度も思っています(笑)。

でも、それはあくまで私が際際まで考えていっているだけで、本来、私しか満足しないはずなんだけど、そこまで寄ってみて考えた言葉を使って話すと「工藤さんの話聞いてすごい腑に落ちました」とか、「全体を俯瞰することができました」「考えが整理されてすっきりしました」って言ってもらえることがある。そうすると、やっててよかったなとすごく思いますよね。本質的には個人の欲求を満たしているんですが、その間で考えた言葉を使って話すときちんと通じるんだなって。私の感じていた違和感に対して、みなさんにも“こういう言葉で言いたい”っていう欲求はあって、きっとそれを会話の中で満たしているんだろうなって思います。それを続けていくのが自分は好きなんだなぁとすごく思いました。声高に言い続けたいです(笑)。

西塔 今日はサステイナビリティの持続可能性という和訳が違うんじゃないか?というところから言葉の成り立ちとか本来の意味を聞かせて頂きすごく腑に落ちました。そして、それを地域に当てはめた時にどういう風に理解して、活用していけばいいのかという話もものすごくヒントがいっぱいありました。

言葉にするというところに地方からの言葉の弱さみたいな社会的課題があると同時に、工藤さんご自身がしっくりする言葉を使いたいという欲求も合わさって今の工藤さんのキャリアというかお仕事につながっているんだなあというところも、とても楽しく聞かせて頂きました。もっともっと聞きたいところですが、今回はここまでということで。楽しい時間をありがとうございました。また次回を作りたいと思います。

工藤尚悟さん

トランスローカル・ラボ主宰、国際教養大学准教授

1984年秋田県生まれ。ホームスクーリングをへて、国際教養大学、東京大学大学院に学ぶ(博士・サステイナビリティ学)。人口減少社会における持続可能な地域づくりを専門とする。秋田と南アフリカのフィールドを往来しながら、異なる風土にある主体の出会いから生まれる”通域的な学び(Translocal Learning)”という地域づくりの方法論の構築に取り組んでいる。近著に『私たちのサステイナビリティ:まもり、つくり、次世代につなげる』岩波書店。

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